久しぶりのキース・ジャレットのピアノソロ・コンサート、曲目はすべてインプロヴィゼーション ー。当日(十月十四日)、池袋の芸術劇場大ホールへ出かける私の心は確かにウキウキとはずんでいた。
 前回は二〇〇三年に来日しているのだから、「久しぶり」というほどのことではないようだが、私にとってはキースの音楽を個人的に楽しむのは、本当に久しぶりのこと。というのも、これまでは彼の演奏を記録しヴィデオ作品にするという目的がいつもつきまとっていたからだった。
 あたりまえのことだが、十台(あるいはそれ以上)のカメラから送られてくる映像を、ホールの外にある中継車の中で見つめているのと、演奏者と同じ空間に身を置いて音楽を楽しむのとでは、まるで別の体験なのだ。だからといって、自分が狭い中継車のなかに押し込められていたことを決して不満に思っているわけではない。このようなポジションに身を置くことによって、カメラのレンズを通してしか見えてこない発見もあったし、十人のカメラマンの十の感性を同時に味わうという楽しみも経験した。そして、撮影したテープを編集するために何度も繰り返し見ることによって、細かい指の動きや、リズムをとる足、キース自身も気づいていないだろう唇の動き、つまり、ピアノという楽器を演奏するために使われる全身の筋肉を通じて音楽を「視て」きたのだった。

 でも、今回は・・・。  ホールの椅子にゆったりと座って、マイクロホンとスピーカーを経由した音ではない、キースが響かせたそのままの音を聴ける、ほんとうに「久しぶり」のコンサートだった。
 ピアノの前に座ったキースの姿は客席からは遠く、顔の表情を見るのは難しかったが、そのおかげで音はくっきりと耳に届いてきた。ピアノに向かって視線を集中させていると、キースの呼吸のリズムがそのまま音の波になって空間を包み込んで行くのがわかった。いつのまにか、自分の呼吸のリズムをそれに合わせていた。ゆっくりと吸い込んだ息をキースはなかなか吐き出さない・・・・、そして、ちいさく、そっと唇から洩らした。それは、人間の身体が決めるリズムなのだ。だから、私もそのリズムで呼吸できる。  そんなふうに直線的な時間をまろやかに曲げのばし、跳ね上げて楽しむ音楽のあそび・・・。

 そうして、たっぷりと楽しんだはずなのだが。  コンサートが終わっても、鳴り響いているはずの深い余韻が身体のなかで反響していない。身体半分がまだ音楽の中に浸っているような心地よい浮遊感が湧いてくるかわりに、ぶつぶつに途切れた感情のみが溢れる。
 そのわけは、キースにではなく、一緒に楽しんだはずの観客にあった。音楽の「聴き手」ではなく、演奏を見物にきた「観客」、それがキースのインプロヴィゼーションを不完全燃焼させ、音楽の余韻をぷっつりと断ち切ってしまったのだった。
 「即興」を元に演奏されるインプロヴィゼーション。
 キース・ジャレットは、それを自分と同じ空間で呼吸する人と共に創作しようとしていた。自分の弾いた音が、どこまで相手に届いたか、それをキースの耳はじっと聴こうとしていた。たしかに、腕はピアノから離れはした。でも、まだ音楽が終わってはいないことは、音の流れを聞いていれば、はっきりとわかるはずなのだ。
 しかし、「観客」はキースの指が鍵盤から離れた瞬間、拍手を始めるのである。音の余韻などまったく無視して拍手と「ブラボー」を叫ぶのである。
 キースは悲しみの表情は見せたが腹は立ててはいなかった。ピアノから立ち上がり、演奏が終わるまでは静かにしていて欲しいと語りかけた。英語だったけれど、身振りを交えた彼のことばが伝わらなかったはずはない。でも、この日の観客はキースのことばに耳を傾けることが出来なかった。

 音楽を耳で聴くことの出来なくなった「観客」たち ー。
 ウキウキと出かけたコンサートだったが、重い気分をおみやげに帰ることになってしまった。

「ONKAN」 2005年12月号より転載