ミラノ・スカラ座の正面玄関左の階段を上がると博物館の入り口があります。館内にはマリア・カラスの衣装、ルキノ・ヴィスコンティがマリア・カラスで「椿姫」を上演した時の舞台の縮尺セット、オペラのトスカニーニと称賛されたセラフィーンの指揮棒などが陳列されています。
7,8年前、僕が仲間3人とスカラ座を訪れた日は休館日でした。どうしても館内を見たかった僕は切符切りのおじさんに中を見る方法がないかを尋ねたのですが、丁重に断られました。あきらめて博物館を見学していた僕はトイレに行きたくなり、先ほどのおじさんにトイレが何処に有るのかを尋ねると、彼は僕が何としてもスカラ座を見たいのだと勘違い、否、もしかすると気持ちを察してくれたのでしょう。鍵束を掴み「一緒に来なさい」と大きな木の扉の鍵を開けてくれたのです。扉の奥には真っ赤な絨毯が敷き詰められていました。
「ここがミラノ・スカラ座です。この先がトイレです。ゆっくり入ってらっしゃい」とおじさんは言い、その上、ボックス席の鍵を開け、ここからだと舞台も見られますよと誘ってくれました。
人気のないスカラ座の内部を2階のボックス席から見回すと、ステージには照明が当り、緞帳の上がった舞台も一望出来ました。ゴージャスな縁取りで装飾された舞台正面には大変にショックを受け、このボックス席に座ってみんなマリア・カラスを聞いたんだな〜と感動に浸ったものです。2,30分して博物館に戻ると、これでいいんだろう?とおじさんは言い、何か説明を始めたのですが、言葉が分からないので紙に書き留めてもらいました。彼は客席の各フロアの最前列の前の部分が楓の木で出来ていることを伝えたかったのです。
楓はヴァイオリンやヴィオラの胴体に使われる程ですから、豊かな響きを得るためにコンサート・ホールの内装にも使っているわけです。
日本の劣悪な音楽環境の中で仕事をしている僕は、そこまで神経を使っていることにビックリしますが、ヨーロッパの音楽関係者にとってはそんなことは当たり前。ホールは楽器の一部だという考え方だからです。音楽好きの気持ちを察し、それに応えてくれるその切符切りのおじさんのような人たちがミラノ・スカラ座を守っているんです。その日、もし僕がオペラを見られたとしても、一番感動するのは切符切りのおじさんの暖かい態度だったと思います。外国から来た見知らぬ旅人にも、このような暖かい接し方が出来るホール関係者が日本に育ってもらいたいと今でも僕は願っています。