去年の夏のことだったと思う。鯉沼さんはいつもの元気な声で、「菊地君!昨日届いたばかりのKeithの新譜、あげるから聞いてほしい」と、発売前でしかもまだ日本に一組しかない貴重な「WHISPER NOT」のCD-ROMをぼくにくれました。
ものすごくやわらかくて、自然な音でした。
あたかもエンジニアの主張や故意が感じられないような。
どうやって録ったんだろう?
ワンポイントマイクで録るのが一番良いって単純に思うでしょ?
ところが実際にTrioをワンポイントだけで録ると、こうはならないんです。たとえば、Pianoから2mくらい離れた所にここだ!っていうPianoの音と会場の響きが調和する良い場所を見つけますよね。そのポイントでは、Drumsが飛び込んできたりWood Bassがうもれてしまったり。
ほんとに自然なんです。
絵そのままの音。
パリのPalais des Congresでの光景が見えるようです。
東京公演を録ることになって、うれしいことにその答えが全部わかりました。来日直前になって「WHISPER NOT」を録ったエンジニアから、どんなマイクでどういうふうに録って欲しいという指示が来たんです。
そしてもっとうれしいことに、こうしようと思っていた方法とほとんど同じだったんです。今回のマイキングがそれです。録音だからMonitor MixだからPA Mixだからという考えをいったん白紙にして、Trio Jazzの音を採るマイキングに統一できたんです。
2001年4月23日 15:30PM オーチャードホール。
Trio Jazz公演の初日のサウンドチェックが始まろうとしていました。スタッフ一同、すべての準備を入念に終え、ぴりぴりした空気の中で、でもアーティスト達にはその空気が伝わらないように、さりげない冗談を言いあったりしながらステージに集まっていました。
もちろん「次はスネアをたたいて下さい。」なんていうサウンドチェックの進め方をするつもりは始めからありません。では、Trio Jazzのコンサートの音をどうしたかったかというと、まず「自然であること」だと思いました。
3階席の一番奥のお客様にも、上手の一番前のお客様にも、お客様がそれぞれのアーティストの指先に目を移しさえすれば、たとえその音がピアニッシモのソロだったとしても、ミキサーのフェーダーをまったく動かすことなくちゃんと伝わる、そんな音にしたかったんです。
自然な音質と音量もさることながら、コンサートではアーティストがそこにいるわけですから、その場所から音が聴こえてくるのが理想だとずっと思っていました。特に、ステージに近づき、下手または上手に歩いていくほど、L−Rのスピーカーから音が聴こえてしまうことにも疑問を感じていました。会場で気がついた方々もいらっしゃるとは思いますが、今回の公演では、鯉沼さんとKeith Jarrett側に了解を得たうえで、新たな試みをさせてもらったんです。
それは、L−Rのスピーカーから音を出さずに、Trio Jazzの頭上7.4mにほぼTrio Jazzの幅に吊られたパワーアンプ内蔵の極端にセンシティヴな二つのスピーカーと、一つのサブベース(重低音)スピーカーだけによってリリースするという方法です。おまけに、電気的リバーヴ(用意はしてありましたが)を一切使用しないで、そして敢えてステレオにせずモノラルで鳴らしていました。
どうしてモノラルかというと、この方法ではPianoが下手側にあるからといって、もしもpianoの音を下手に多少PANしたとしたら、スピーカーよりも上手にいるお客様は、下手にいるお客様よりも下がったBalanceのPianoの音を聴くことになるからです。
念のため、どの会場でもL−Rのスピーカーも通常と変わらずセットアップし、調整したうえでサウンドチェックに臨み、この時点でフライングスピーカーだけの方が良い結果が得られることを確認できた場合、リハーサル後にL−Rのスピーカーを撤去するという方法をとりました。
さて、話を4月23日のサウンドチェック時に戻します。
ほぼ同時にステージに現れたGary PeacockとJack DeJohnetteはゆっくりと注意深く自分の楽器の位置と生音(なまおと)をチェックし始めました。楽器の位置が決まるまでは、マイクはいったん邪魔にならない位、離しておきます。Pianoのマイクは、すでにほぼ良い位置にシューティングしてあります。Drumsマイクのセットアップが終わり、Wood Bassのマイクをセッティングし始めた頃、ちょうど良いタイミングでKeith Jarrettが鯉沼さんと雑談しながら登場しました。
鍵盤にポロロンと触れて、「ん〜この辺の音、ほらほらたとえば山の上の空気みたいなんだけれど、もう一歩抜け出るといいよなー。」というような、とても感覚的な表現で、そのPianoの感想を述べているうちに、もうTrio Jazzの演奏になっていて、そして1分もたたないうちに、我々スタッフもその演奏に引き込まれていったんです。
当初、Gary Peacockのステージモニタースピーカー(以下モニター)に、本人の指示でWood Bassの音だけがほんの少し出されていただけでしたが、1曲目が終わる頃には、アーティスト達の指示によって、Jack DeJohnetteのモニターに、彼の右耳に聴こえるPianoの生音と同じくらいの音量のPianoの音を彼の左側から、Keith JarrettのモニターにはPianoの音だけを、やはりほんの少し出していました。こうして、ステージ上でのTrio Jazzの生音のBalance(正確にはモニターも含まれた生音のBalance)が完成していくのです。特筆したいことは、モニターにすべての音を返すことができる環境だからといって、モニターに相手の音を出して、モニターの音と演奏するのではなく、あくまでも相手から生で聴こえてくる音と演奏するようにアーティスト自身が心がけていることです。この時点では、PAシステムはまだ生かしていませんでした。
サウンドチェックの終盤には、いったん演奏をやめて、PAも加わって、Trioが一体となったときのステージ上での音の感じやまとまりについて、客席で音を入念にチェックしていたRose-Ann(Keith Jarrett夫人)も含めて、もう一度話し合います。(Rose-Annは、後でわかってきたんですが、驚くほど耳の感覚の優れた人だったんです。)
この後、Pianoをほんの20cm Wood Bass側に動かしてみたり、舞台監督のアイデアで、Trio Jazzのすぐ後ろに吊ってあったステージ一面の黒幕を、1mだけ後ろに吊り換えて演奏してみたり。
Trio Jazzのサウンドチェックは、終始「生音の響き方とBalance」を感じ取り、良くするために進んでいきました。
そしてどの会場でも、お客様の鳴り止まぬアンコールの拍手と共に、自分自身も心からの拍手を送りながら、やはりこれはTrio Jazzの元来の生音のBalanceがあってこそできることなんだな、と確信したのは、ぼくだけではなかったと思います。
音響チーフデザイナー 菊地 徹
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