The Offer
スタンダードを教材に音楽を教えていた時期に受けた、
スタンダード・トリオ録音の申し出

 その後1982年になって、こんどはキースのほうからジャックと一緒にトリオを組んでやらないかという話が持ち込まれた。1982年の秋頃だったと思う。スタンダードをレコーディングする数ヶ月前のことだ。マンフレート・アイヒャー(ECMのプロデューサー)が電話してきたのか、キース・ジャレットだったのか、はっきりとは憶えていない。ひょっとしたらキースのマネジャーだったかもしれない。そのうちの誰かから、まず電話でレコーディングの話があったんだ。そのころ私はワシントン州シアトルのコーニッシュ・カレッジという私立の芸術専門校で音楽を教えていた。音楽の理論、ハーモニー、イヤー・トレイニングなどを担当していたんだが、その教室で私は、課題曲の教材にアメリカン・ソング・ブックを使っていた。だからキース側からスタンダードをジャック・ディジョネットとのトリオでレコーディングしたいというアイデアがもたらされたときは、「いまさらなんでまた?」とびっくりした。生徒にスタンダードを教えてはいても、自分で演奏するなんてまっぴら御免だね、というような気持ちだった。
 私はそれまでキースがやってきた音楽についてよく知っていた。彼がデューイ・レッドマンとのカルテットで録音した『残氓』なんか驚くべき素晴らしさだったし、ヤン・ガルバレクと組んだ“ビロンギング”というカルテットでの音楽も聴いていたが、キースはずっとジャズの最前線で創造的な演奏をしつづけてきていた。当時の彼がやっていたソロ・ピアノによる試みを聴いても、どこにもスタンダード曲なんか出てこない。全編純粋な即興演奏だ。そういう創造的な活動をしてきたキースが、何でまたスタンダードなんかをやろうといいだしたのか、私にはすぐには理解することができなかった。はじめは音楽的な方向を変える気持ちになったのかと思った。ひょっとしたら、スタンダードをやってお金を稼ぎたくなったのかなと思ったりもした。だから最初の私の反応は、そんなのはやりたくないという否定的な気持ちが強かったんだ。しかし、そのあとしばらく考えながら私はキースのレコードを改めて聴き直してみた。その結果、そんな俗っぽいことをキースが考えるわけがない、これほどの音楽をやっているキースがお金を稼ぐためや人気を獲得するためにスタンダードをやるわけがない、そんなことができるわけがない! と思うようになった。そして、キースは単にスタンダードをプレイするためだけに私を誘ったのではなく、さらに高い水準のプレイを目指して何かやりたいと考えているに違いない、そこには何か重大な意味がかくされているに違いない、と確信するようになった。そうなればキースに「なぜ?」と訊く必要はない。だから私はその時点で、キースとは1度も話さないままトリオに参加することを受け入れていたんだ。